念仏宗の無量壽寺について、改めて語ってみよう

寺院というのは、何やら日本人にとってはひとつの心の原風景のようにも感じられます。一般の家庭に育った人であれば、お寺は身近とはいえなくても、ある程度定期的に接することがありますし、避けて通るような場ではありません。念仏宗の無量壽寺は、荘厳なまでの美しさを持った寺院で、街場の私たちの町内にあるお寺とはちょっと異なっています。この無量壽寺を実際眼前にした時、私たちはいったい何を感じるのでしょうか?

無量壽寺を建築物的視点から見てみる

念仏宗無量壽寺は広大な敷地に厳粛なまでの美観をもて聳え立つ仏教寺院です。総門から山門、参道、太子殿・五重塔、鐘楼、釈迦堂、経蔵、観音堂、本堂、そして講堂、の施設群は総じて仏教美術館ともみることのできる目を見張るさまざまな建築によって建立されたものです。何か懐かしい日本の仏教建築の再現のように見せているのですが、実は中国、韓国、そして日本の三国の様式を自在に取り入れた建築設計はある意味不思議な新しい視点を私たちに与えています。また建築物の内部における障壁画などの装飾に至るまで極楽浄土をイメージさせる絢爛な視覚世界を提供してくれます。さらにおびただしい数の羅漢が修行をしている様子を羅漢公園は、ある種生々しくまた生き生きとした石造群が私たちの心を震えさせます。

私が思う無量壽寺のすごいところ

念仏宗が教え説いているのは「真の幸福」についてです。念仏宗総本山佛教之王堂無量壽寺は、日本庭園が広がり、私たちの心の安寧を望む気持ちを迎え入れてくれます。ここにあるのは、視覚世界ではあるけれど恐らく念仏宗が教え導く、心の状態つまり「真の幸福」を造形化した「心象風景」ともいうべきものかもしれません。無量壽寺を訪れる人々は、この「心象風景」を目にすることをきっかけに「真の安心」を感知し、心の安らぎがあることで幸せを感じることができるのではないでしょうか?無量壽寺の厳粛な美しさは、その見え方とは異なり、実はお釈迦さまが示している極めて精神的な世界です。もちろんその規模での驚嘆を人々に与えるものではあるのですが、視覚世界から精神世界へと誘発するその仏教的な装置性が、極めて優れたアートとしての機能を有しているということができるのではないでしょうか。そこに「真の幸福」を感じるのです。

なぜ無量壽寺を建てたのだろう

念仏宗の目指す「真の安心」は、お釈迦さまが導く「大涅槃」へと通じる心の安寧です。「緊張と調和」、「厳しさと優しさ」、無量壽寺の建築の示すその景観は、人々の日々の信仰の心得をカタチとして示しているように感じられます。信仰は不思議なものです。日々の実践は「ストレスとその緩和」の循環によって構成され、その持続がカタルシスを生み出します。これは人の生活そのものではないでしょうか?念仏宗が無量壽寺を建立した本当の意味は私にはわかりませんが、寺院仏閣というものはそもそも参詣の対象と同時に実践道場としての性格も持っています。神社仏閣を彩る装飾は、単なる目の保養のためにあるのではなく、その物語、戒め、情景にこそ意味があり、訪れる方々が学ぶための仏教の書籍でもあるわけです。無量壽寺は、その書籍、あるいは経典としての究極を実現するために建立された、そのように私には考えられるのです。

まとめ

極めな荘厳な無量壽寺は建築的にもたいへん興味深いものがあります。中国、韓国、日本の三国様式の混在、華麗な装飾、迫力のある五百羅漢、どれをとっても私たちの目を引くものばかりです。しかしそのすごさは、単に視覚的な美しさばかりではないと私には思えます。仏教的世界観をここには確かに感じることができます。念仏宗はこの無量壽寺を視覚世界から精神的世界へと人々を導くための装置として建立したのだと私は考えます。

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